『HOWEVER  1.』


 夕暮れの光はステンドグラスを刺し貫いて、見つめあう恋人たちに降り注いでいる。
 サントハイムの大聖堂に、今はクリフトとアリーナの2人きり。
 交わす声は欠片すらもない。
 静寂の中に立ち尽くすアリーナの紅玉の瞳が不意に揺らぎ、潤むのを、クリフトはただ苦しげに見据えることしかできなかった。

 この間はアリーナが諸国を訪問、その前はクリフトが研修、さらに前は……。
 ロイヤルデューティ。ノブレスオブリージュ。
 身分に伴い課せられる義務、心構え。自覚せよ、気高くあれ。忙殺されて身動きも取れない。ただ合間を縫うように、どうにか逢瀬を交わす日々。
 窮屈なんてまっぴらと我を押し通せた頃にはもう戻れない。

 導かれし者として世界の平和と秩序を守るために旅をした、あの時にも、もう。

 これが本来の姿だと、頭では理解しているつもりなのだ。
 現状を受け入れて、否応無しにでも互いの場所に身をおいて生きるしかないというのも、ちゃんとわかっている。
 それでも時を経て生まれ、確かめあった想いは変わらないという、たった一つの確かな現実だけが、支えとなっていた、はずだった。

 だけど。

 口を開いたのは、アリーナだった。


「どうして……どうしてアナタはいつもそうなの?」


 きつく握られ、わなわなと震える彼女の拳の中でぐしゃ、と音を立てたのは、クリフトの手から強引に奪った数枚の紙切れだった。


「……すみません」

「どうして肝心なことは何も言ってくれないの?」

「……すみません」


 居たたまれない、というように視線をそらし、うつむいて、でも何度も口にするのは謝罪の言葉のみ、というクリフトにとうとうアリーナの感情は限界を超えた。
 手にしていた紙切れを、力任せにビリビリと破き始めたのだ。


「姫様!!」

「なんなのよ、どうしていつもそうなのよ、こんな……こんな!!
 どうして何も言ってくれなかったの!?2年よ!?
 2年も離れ離れになっちゃうのよ!?アナタは何も思わなかったの!?」

「……すみません……」


 唇を噛み締めるクリフトの姿が小さく弱々しく見えて、それが一層アリーナのいらだちを募らせた。

 きっかけは今彼女が引き裂いた一通の辞令だった。
 『クリフト・リヒテンシュタイン大神官に、ゴッドサイドを起点として諸国巡礼を申し渡す。期間は、2年』。
 せめて彼の口から直接聞けていれば、まだここまで腹も立たなかったはずだ。
 だが……アリーナがこの話を耳にしたのは、偶然訪問したサランの教会。
 しかも、シスターたちの噂話、だったのだ。

 諸国巡礼には神官の他に、各地より選ばれたシスターも同行することが多い。
 妻帯を許されるサントハイム領では、この巡礼の旅の最中に恋仲となり、結ばれる者もいると聞く。


「すみません」

「アナタはいつもそう。ただ自分が悪かったと謝るの。どうして謝るの?」

「姫様を不快にさせてしまったのは、ひとえに私の不徳の致すところだからです」

「そんなの……!!!」


 書類を破り続けるアリーナに、ただひたすら同じ言葉を繰り返すクリフト。
 いつもそうだ。せめて言い訳の一つでもしてくれたらと思うのに、彼は絶対にそれはしない。してくれない。
 出立は、明後日。
 それだって、我を忘れたアリーナが教会に飛び込むなり神父の胸ぐらをつかみあげて聞き出したことなのだ。


「すみません。姫様には明日お話するつもりでした」

「明日って……」


 アリーナは絶句した。
 しばしの沈黙。
 やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。


「アナタは、この関係をどう思っているの?」

「え?」


 蒼玉の瞳に一瞬よぎった逡巡の光を、アリーナは見逃さなかった。


「私には何も話さなくてもいいと思ってる?
 このまま、いつ途切れるともしれない不安定な関係に満足しているっていうわけ?」

「そ、それは」

「だから肝心なことは全部しまいこんで何も言ってくれないの?
 ……そうよね。今のままでいいのよね。だって現状に甘んじていればめんどくさくないもの。
 ちょっと不便なだけ。気が向いた時に会いにくればいいだけ。アナタにとってはその程度の認識なんでしょう?」


 言葉をつなげればつなげるほど、奥底にしまいこみ、厳重に封をしていた様々な想いが抑えきれなくなる。
 だが、それでも彼がつぶやいた、言葉は。


「すみません」


 アリーナの中で、なにかがぶちん、と音を立てた。
 彼女は粉々に千切り、握りしめていた書類を力いっぱいクリフトに投げつける。
 彼の胸にあたり、大きく舞い上がった紙片がはらはらと、2人の近くて遠い距離を白く彩った。






















 illusted by ユーリ様
 We thanks heartily!




「アナタは何もわかっていないんだわ!
 私がどれだけ不安なのか。いつアナタを失うかもしれないと怯えているのか。
 いてほしいときに傍にいてくれない苦しさもなにもかも、アナタは何も感じちゃいないのよ!!」

「そんなことは!!!」


始めて、クリフトが声を荒げた。
一瞬目を丸くし身を固くしたアリーナに、クリフトも堰切ったように叫び返した。


「貴女こそなにもわかっていない。
 苦しいのは貴女だけだなんて、そんなわけないじゃないですか!
 不安に怯えているのは私の方だ。貴女はなにもわかっていない!!」

「じゃぁ……!!」


どうして、そう言いかけてアリーナは口をつぐんでしまった。
もう言葉にならない。この先は言ってはいけない、言えば全てが壊れてしまう。
必死に押しとどめた感情は、涙となって溢れ出す。
ぼろぼろと泣きながら見つめた先で、クリフトも瞳を潤ませていた。

互いに何も言えないまま、最後の陽光だけが薄く煌く。


「……クリフトの、馬鹿!!!!!」


大きく叫ぶなり、顔を伏せ、アリーナがクリフトの脇をすり抜けて駆け出した。
クリフトは立ち尽くしたまま動かない。
アリーナもまた、振り返ることなく、大聖堂を飛び出した。

城までの道を、アリーナは泣きながら駆けていく。
彼女の心の中には、必死にこらえた言葉たちがぐるぐると渦巻いていた。


『どうしてアナタはいつもそんなに平気そうなの?』
『私がいなくてもアナタはきっと何も変わらずに生きていけるんでしょう?』


もういい、どうでもいい。そうよ、いつだってそうだもの。クリフトなんか。クリフトなんて。


『未来(先)になんの約束もくれない人なんて!!!!』


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喧嘩別れしたまま責務に追われて話すどころか姿を見ることもできずに1日が過ぎてしまった。
アリーナは自分の部屋のベッドに身を投げ出してため息をついた。
明日にはクリフトは旅立ってしまう。
そこから2年間。手紙一つ出すのだって容易ではない。
せめて一箇所にとどまっていればともかく、世界中をまわって歩くのだ。所在すら掴めないかもしれない。
さらに……もしかしたら、離れている間に。

考えれば考えるほど希望が遠のいていく。けれど今更素直にはなれそうにもない。
もう一度ゆっくり話す時間も、ない。

浅い眠りを繰り返してやがて夜が明ける。

時を告げる鐘の音に沸く街を、アリーナは教会の屋根の上から見下ろしていた。
歓喜の声の中心には、柔らかい笑みを浮かべて人々の声に応えるクリフトと、共にゴッドサイドに向かう神官たち、シスターたち。
当然ながら誰ひとり、空の近くにいるサントハイム王女に気づかない。

アリーナはしばらく眼下の様子を眺めていたが、猫のような身のこなしで屋根からするりと飛び降り着地すると、とある場所に向かって駆け出した。


彼女が辿り着いたのは、城壁近くの桜の大樹の下だった。
そっと幹に手を添え、額を押し当てる。
先ほど見た光景を反芻して、大きく息をついた。
……自分がいなくても彼はきっと、何事もなかったように彼の世界で生きていける。
たくさんの優しい人に囲まれて、いつか素敵な伴侶にも恵まれるはずだ。
いつもこの場所で、いくつもの秘密も想いも交わしあっていたのに、それもやがては過去になる。
ずっと一緒だと思っていた。でも結局は、夢だった、のかもしれない。

アリーナは小さな紙切れを取り出した。
花柄の、細長い一筆箋。そこには短く『行ってらっしゃい。無事を祈ってる』とだけ書き付けてあった。
あんな言い争いをしてしまって、仲直りもできぬまま会えなくなるのだ。
クリフトの気持ちが冷めてしまったっておかしくないと思う。
かといって顔を合わせたところできっと心が先走って、うまく綺麗に言葉を紡げそうにない。
だから、せめて。そう思って用意してきたものだったのだ。


案の定、彼に手渡せやしなかったけれど。


アリーナは、桜の枝に手紙を結びつけた。
冬の枯れ木に一輪の花が咲いたかのように、薄桃色の紙が枝とともにさわ、と揺れる。
好きとか嫌いとか、そんなことよりも、ただ、『長い旅路を行くクリフトが無事でありますように』『クリフトに神の御加護がありますように』。
どこか諦めの風が吹き抜けたアリーナの気持ちはそれだけだった。

彼女は一つため息をついて踵を返す。
もう少しで出発だ。


「行ってらっしゃい」と小さく呟いて、アリーナはその場をあとにした。




 
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